今日は8歳の娘と京都へ行ってきました。

娘と一緒に京都に行くのは、もう30回近くにはなっているはず。今日も大阪から、大好きな京都へ行ってきました。

10代の頃、福岡に住んでいた私にとって京都は憧れの場所でした。

教科書に出てくる、歴史ある街並み。

どこを見ても新鮮で、少し緊張して、少し背伸びをして、私は”観光客”として浮き足立って歩いていました。

友達と笑いながら歩いた京都。

1人でふらっと訪れた京都。

出張先の父と合流して、あの頃はまだ少し距離を感じながら父と歩いた京都。

どの京都も、その時々の自分と、一緒にいた人達との思い出が重なっていて。

そして今、

関西弁を話す娘と一緒に、慣れた足どりで八坂神社へと。

道に迷うこともなく、人の流れに自然に乗って、外国の方に写真を頼まれれば、ためらいもなく応じていて。

京都でご飯を食べることも、最近はほとんどなくて、「帰ってから食べようか。」そんな会話が当たり前になっていて。

電車に座るコツも分かってきたりして。

あの頃、あんなに特別だった場所が、今は少しだけ”日常”に近づいていっています。

それでも不思議と京都は、飽きることなくいつでも新鮮で。

家族で行くと、はしゃぎながら歩く古びた街並み。いつまでも変わらない街のはずなのに、同じ道を歩いても、その日の光や風、時刻、人の流れで、いつでも新鮮に感じることができて。

そんな何気ない風景が、気づけば大切な記憶になるのかなと思ったり。

鴨川にいくと、頭の中に流れてくるのは、ジュディマリの、KYOTO。

あの頃憧れだった場所が、今はこうして日常の中にあって。

この何気ない今日は、将来どんな思い出になっているのだろう、と思ったり。

生前に母が行きたいなと言っていたのも京都だった。今は亡き父と私の妹と、母が亡くなった後に3人で初めて旅行した先も京都だった。東寺の枝垂れ桜の下で3人でソフトクリームを食べた思い出。その京都の旅を皮切りに、父と沢山の旅をして一緒に時間を過ごせたっけ。

友達とも何度も訪れた京都。今は中々会えないけれど、今も変わらない同じ景色の中に思い出は焼き付いていて。

そして今日、娘と歩いた京都。

きっと将来思い出すのは、特別な出来事ではなくて、

八坂神社への道や、手を繋いで歩いたことや、娘と背景の一瞬を逃すまいとシャッターをきっていたこと、こんな日常の延長のような1日が、未来の私にとっては、きっと大切な思い出となっているのかな。

憧れていた京都と、今、日常の中にある京都。

窓辺でミルク珈琲を飲みながら、次は桜が咲く頃かな。とぼんやり思う。